津軽篇・江戸時代/第36話

弘前城 弘前城は、平成23年、築城400年の節目を迎えました。かつては、別名・高岡城と呼ばれていました。江戸時代初期に築造され、小規模ではありますが、築城当初の縄張りの大部分が現代もそのまま残っており、全国の城郭天守の中でも代表的な城跡として知られています。
 弘前城の築城にあたっては、津軽統一を成し遂げた津軽為信によって計画され、2代・信枚(のぶひら)が着手し完成しました。
 築城当時、天守は現在の本丸西南の隅にあり、5層の堂々たる天守がそびえ建っていました。寛永4年(1627)9月10日、落雷により天守は炎上してしまいます。炎は火薬を置いていた4層目に広がり、大爆発を起こし、すべて焼失してしまいました。
 文化7年(1810)9代藩主・寧親(やすちか)のとき、隅櫓を改造する名目で幕府の許可を取り、秘密の内に新築されたのが現在の天守です。現在は弘前城史料館として、藩政時代の歴史資料を展示公開しています。1階は刀や鎧など、戦で使用された武具を中心に、2階は裃(かみしも)などの生活用品を、3階は弘前城を含め、全国48の城郭の写真とともに弘前城本丸御殿のミニチュア模型が展示されています。
 弘前城跡は弘前公園として整備されており、公園内では、4月下旬から5月上旬にかけてさくらまつりが開かれ、明治時代以後に植えられた約2600本に及ぶサクラと江戸時代以降の松が調和し、全国から200万人以上の観光客が訪れます。(サト)

〈参考文献〉弘前市史 藩政編
      弘前城築城四百年








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コラム 重要文化財、弘前城北門/亀甲門

 弘前城内の建物の中で、現存する城門は、追手門、内南門、内東門、外東門、北門(亀甲門)の五つで、五門とも同じ「櫓門」すなわち、石垣と石垣の間に渡櫓(わたりやぐら)を渡して、その下に門を設ける形式です。ただ弘前城の場合、石垣でなく土塁を使用しているため、純粋な櫓門といえない形です。
  その五門の中で一番古い建物は北門であると考えられています。北門は亀甲門(かめのこもん)ともいい、弘前城にある五棟の城門の中でも特に規模が大きく、形状も異なり最古の形式を呈する城門です。 亀甲門は、津軽為信が攻め落とした大光寺城(現在の平川市)の城門を慶長16年、2代藩主・信牧が築城にあたり弘前城追手門として移築再建したもので、弘前城内で唯一実践を経験した貴重な城門です。柱などから多数の矢傷跡が発見されており、棟の両端にある鯱も他の門より古い形式のものである点、矢狭間、鉄砲狭間のない点など、見るべきところが多い門です。 (サト)

出典:弘前城築城四百年 弘前市史 藩政編

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