津軽篇・江戸時代/第35話

高照神社と津軽信政 青森県弘前市の高照神社には、津軽を統一した藩祖・津軽為信と、4代藩主・津軽信政が祀られています。高照神社は、弘前藩において岩木山神社とともに厚く信仰された神社で、平成18年(2006)に境内の主要な建物が国の重要文化財に指定されました。
 4代・信政は弘前藩きっての名君といわれた殿様で、「自分の廟所をこの地にせよ」と遺言を残して亡くなりました。そして5代藩主・信寿がその遺言に則って築いたのが、現在の高照神社です。
 境内には数多くの資料や宝物が収蔵されています。鎌倉時代の銘がある「友成作の太刀」は、為信が豊臣秀吉から与えられたものであるといわれています。その他にも、刀や、信政が着用した甲冑などが収められています。
 奉納額絵馬は、県有形民族文化財に指定されており、拝殿に掲げられています。これらの絵馬は、藩主およびその一族と家老級の重臣によって奉納されたものです。藩主および一族と重臣では絵馬の形が異なり、藩主らの絵馬は家型なのに対して、重臣のものは長方形で一回り小さくなっています。いずれも幕府の御用絵師や江戸定府の藩御抱絵師(はんおかかええし)の描いたもので、質・量ともに津軽地方では他に例を見ません。
 絵の内容を理解すれば、描かれた当時の様子を伺い知ることができます。(サト)

〈参考文献〉特別展「高照神社宝物展」
      岩木の絵馬








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コラム 弘前藩4代藩主・津軽信政

 弘前藩の全盛期を築き上げ、江戸時代前期の名君、並びに弘前藩中興の英主とされた弘前藩4代藩主・津軽信政。 信政は、父の死去後、明暦2年(1656年)2月に家督を継いで藩主となります。しかしまだ幼かったため、叔父の津軽信英が補佐を務めました。信政は幼少期から聡明で、山鹿素行に師事し、儒学や兵学を学び、吉川惟足の師事も受けて神道を学びます。そして、惟足からは吉川神道の奥義を授けられています。
  成長したのちの信政は、津軽新田の開発、治水工事、山林制度の整備、植林、検地、家臣団の郊外移住による城下町の拡大や、養蚕、織物、製糸業などの発展・育成に努めます。民政においても善政を重んじ、弘前藩の藩政確立と発展に尽力し、藩の全盛期を築き上げます。 しかし晩年の信政の藩政にも陰りが見え始めます。藩内で起こった3万人以上の死者を出した大飢饉、さらに失態事件を起こすなど、次第に藩政は衰退の一途をたどります。
  混乱の最中の宝永7年(1710年)10月、信政は弘前城にて死去し、享年65歳の生涯を終えます。5代藩主となった信寿は信政の遺言に従い、御霊を高照神社に祀ったそうです。(サト)

出典、青森県の歴史散歩

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