津軽篇・江戸時代/第32話

津軽真言五山と求聞寺〉 寛永3年(1626)、弘前藩2代藩主・津軽信枚は、師である天台宗大僧正・天海と幕府からの預人・慶光院に相談のうえ、最勝院を筆頭に、百澤寺、国上寺、橋雲寺、久渡寺の5つの寺院を津軽真言五山としました。
 最勝院は弘前八幡宮の別当寺であり、領内の寺社および神社を統括していました。最勝院の場所にはかつて大円寺があり、本堂・五重塔・六角堂等はすべて引き継がれています。
 岩木山麓にあった百澤寺は、現在の岩木山神社の前身で岩木山三所大権現の別当寺でした。岩木山神社には楼門をはじめ、本堂、本坊が残され、金剛力士像は最勝院の仁王門に、五百羅漢の一部は長勝寺に伝えられています。
 求聞寺は、信枚が真言密教の求聞持法(ぐもんじほう)を習得するため、虚空蔵菩薩を勧請して百澤寺境内の森に穴を掘り、そこで呪文を100万回唱え10の指を捧げるという荒行を行い、その場所に虚無蔵堂(求聞持堂)を建立したのが起源とされています。
 平川市碇ヶ関古懸にある国上寺には津軽三不動尊の一つに数えられる坐(ね)まり不動があります。この不動尊が汗をかくと領内に不吉が起こるとされ、その際には藩主が祈祷を命じたといいます。橋雲寺には藩祖・津軽為信が関ヶ原の合戦に出陣した際に持ち帰った勝軍地蔵が祀られています。久渡寺には津軽最長の227段の石段があり、寺宝には円山応挙作「幽霊の図」があります。
 このように、藩政時代において、藩主をはじめとする人々の神仏に対する信仰心や恐怖心が非常に深いものであったことをうかがい知ることができます。(haru)

〈参考文献〉青森県の歴史散歩
     最勝院ホームページ  弘前市ホームページ 
     真言宗津軽仏教会津軽弘法大師霊場ホームページ








より大きな地図で 青森歴史街道探訪 津軽編MAP を表示


より大きな地図で 青森歴史街道探訪 津軽編MAP を表示


より大きな地図で 青森歴史街道探訪 津軽編MAP を表示


より大きな地図で 青森歴史街道探訪 津軽編MAP を表示>


より大きな地図で 青森歴史街道探訪 津軽編MAP を表示

ページのトップへもどる

動画

ページのトップへもどる

コラム 弘前城の惣構と宗教信仰

 弘前城の惣構とは、本城と城下町全域を一つの城郭と見立てて、濠や土塁で囲んだ 防衛施設をいいます。   東側から南側には土淵川、北側には堀川(階堰)、田堰の両河川、西側には岩木川 と四方の河川が城を守ります。
  弘前の惣構は長勝寺構(33カ寺)、新寺構(南溜池と大円寺を含む16カ寺)にみら れるような寺社を惣構内の拠点として活用されていたことが一つの特徴です。
  さらに、弘前城は風水による「四神相応の地とされる東に青竜神が宿る川、南に朱 雀神が宿る池、西に白虎神が宿る道、北に玄武神が宿る山が守護する場所に築城され ています。当時、南を守護する天然の池は無く、この思想に沿うよう溜池が造られま した。
  このほか、鬼門の位置には押えとして弘前天満宮を配置し、裏鬼門にあたる位置に は長勝寺を配置し、風水上にも手厚く守護されているといえます。   また、領内全体も神仏による加護を受けられるよう多くの寺院が建てられています。
  藩主は、津軽真言五山(最勝院、百澤寺、国上寺、橋雲寺、久渡寺)、津軽天台四 山(報恩寺、薬王院、神宮寺、袋宮寺)を定め、神仏の加護による領内鎮護を祈願す るため、自ら幾度となく寺院を訪れていました。このことにより領民の神仏信仰の意識も高まり、弘前藩は神仏の加護によっても守 護され、廃藩となるまで繁栄し続けました。(haru)

ページのトップへもどる