津軽篇・江戸時代/第31話

高岡を弘前と改称 弘前城の表門は城の南に位置する追手門ですが、築城当初は現在の北門である亀甲門が表玄関とされていました。亀甲門は、大光寺城に使われていた城門を弘前城築城の際に移築したものです。この門には、柱などに多数の矢傷の跡が残っています。弘前城では築城以来、実戦が行われなかったため、亀甲門が唯一の実戦の痕跡をとどめる貴重な城門となっています。
 亀甲門をくぐり、賀田橋を渡ると右手に本丸、天守が見えてきます。現在は三層の天守が残されていますが、かつては、華麗な5層の天守が本丸西南隅にそびえていました。
 弘前城は慶長16年(1611)、弘前藩2代藩主・津軽信枚によって築城され、当時は高岡城と称していました。その後の寛永4年(1627)、落雷で弾薬蔵に火が入り、大爆発を起こして天守が炎上してしまいました。この天守炎上は、当時、祟りによるものと信じられていました。そこで、信枚はこの祟りから逃れるため「高岡」と呼ばれていた藩都を「弘前」、城も「弘前城」と改称しました。この改称は、信枚の師である天台僧・天海の助言によるものだといわれています。「弘前」という名前の意味は、天台密教における破邪の法から名付けられており、魔除けの意味があるとされていました。
 信枚は天海の勧めで、徳川家康の養女・満天姫を娶っています。また、領内に天台宗の寺院として薬王院を建立し、江戸にも天台宗の津梁院を建立し、菩提寺にしました。徳川家康の頭脳ともいわれた天海が、信枚と弘前藩に与えた影響力は計り知れないものがあります。(haru)

〈参考文献〉青森歴史散歩、風水で読み解く弘前








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コラム 津軽家の菩提寺

 津軽家の菩提寺は弘前市にある長勝寺で、歴代藩主の墓所のほか、環月台(初代藩主 為信の室・阿保良姫)、碧巌台(2代藩主・信枚)、明鏡台(2代藩主信枚の室・満天姫)、 白雲台(3代藩主・信義)、凌雲台(6代藩主・信著)の5つの霊屋が建てられています。  初代藩主・為信の霊屋は革秀寺(弘前市)に、4代藩主・信政の廟所は高照神社(弘前 市)にあります。
 このほか、江戸時代には参勤交代による江戸住まいの際に亡くなった藩主もいたため、 江戸にも菩提寺がありました。2代藩主・信枚の師である天台宗大僧正・天海の助言によ り建てられた上野の津梁院です。この寺院の院号は信枚が天海から血脈を受け、授けられ た号「津梁院権大僧都寛海」に由来しています。
 弘前市にはもう一カ所菩提寺としていた報恩寺があります。報恩寺には3代藩主・信義 以降の墓所がありましたが、のちに長勝寺に移されました。また、藩主の正室や生母、姫君の墓が貞昌寺(弘前市)にあり、為信の生母、3代藩主 信義の生母・辰姫、為信の娘・伊喜などの墓があり、貞昌寺は裏菩提所とも呼ばれてい ます。貞昌寺は為信の生母の戒名「桂屋貞昌大師」から由来する寺号だそうです。(haru)

出典:青森県の歴史散歩、弘前の文化財、弘前市ホームページ、天台宗東京教区ホームページ

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