津軽篇・江戸時代/第28話

城下町 元寺町から新寺町へ 青森県弘前市新寺町。慶安2年(1649)に元寺町にあった15カ寺が火災で焼失し、翌年に弘前藩3代藩主・津軽信義によって新寺町に再築されました。寺社を集結させて城下町を信仰の中心とし、領民の統制に役立てるためだったと考えられています。現在は真言宗、天台宗、浄土宗、日蓮宗など様々な宗派の二十四カ寺が集まっています。
 そのほぼ中央に位置する貞昌寺は、2代藩主・津軽信枚が創立したと伝えられていますが、初代・為信の娘・富姫が創建したという説もあります。境内の4つ並んだ墓石は津軽家と縁が深かった女性たちの墓石です。一つ目は、為信の側室であり、信枚の生母であった栄源院の墓、そして為信の生母の墓。三つ目が信枚の側室であり、3代藩主・信義の生母であった荘厳院の墓です。最後の墓石は、初代藩主・為信の三女・伊喜姫のものです。寺の名前は、為信と信枚二人の生母の法名に因み、月窓山栄源院貞昌寺とされています。
 貞昌寺には、野本道玄がつくったとされる全国でも珍しい一文字の庭があり、県指定名勝とされています。庭は領内を縮小した構成になっていて岩木山や岩木川、津軽平野を模した縮景式庭園でさらに背後の山々を借景として取り入れています。また、貞昌寺に祀られている木造釈迦涅槃像(もくぞうしゃかねはんぞう)は、釈迦が没した時の姿を現した、国内では珍しい横になった仏像です。胎内に納められた文書により、延宝8年(1680)に作られたことが判明し、昭和53年に弘前市指定有形文化財に指定されました。(芳賀)

〈参考文献〉弘前城物語
      つがる巷談
      私説 弘前城ものがたり—知られざる築城の謎—
      弘前城築城四百年 城・町・人の歴史万華鏡        弘前の文化財
      浄土宗月窓山栄源院貞昌寺 提供資料








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コラム 弘前城下町の職人

 弘前には職種にちなんだ町名が数多く残っています。これは、城下町が建設された当時、町名と同じ職種の職人たちが住んでいたからです。弘前藩の需要を満たすために、職人たちが城下町に集められました。さらに、城下の人々の生活に必要な物資を生産するためでもありました。この職人たちの持ち込んだ技術や文化が、のちの弘前を発展させ、文化都市として発展してゆくのです。
  その代表的な人々は、絵師・新井寒竹(あらいかんちく)。定府おかかえの絵師となり、子孫も代々江戸詰めの絵師を務めたそうです。定府とは、江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住して将軍や藩主に仕える者をさします。他に、紙漉師・今泉伝兵衛、金具師・正阿弥儀右衛門、瓦師・大阪久三郎、桶師・宮本兵部、指物師・権七、塗師・池田源兵衛、左官・佐藤金十郎、絵巻師・助右衛門、植木師・権右衛門が有名な職人たちでした。
  職人になるためには、現代と同じく、親方のもとで厳しく修行しなければなりませんでした。朝から夜まで雑用に精を出し、技術を習得していきます。親方は安価な労働力が手に入り、見習いは、労働力を提供して技術を学んでいったのです。
  現在も残っている城下町は、先人の尊い知恵と技術が結集されてつくられました。この技術を伝えていくことが、我々現代人に課せられた使命なのではないでしょうか。(芳賀)

出典:弘前城物語 工藤英寿 つがる巷談 吉村和夫 私説 弘前城ものがたり-知られざる築城の謎-田澤正 弘前城築城四百年 城・町・人の歴史万華鏡 長谷川成一 弘前の文化財 弘前市教育委員会

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