津軽篇・江戸時代/第25話

為信の死と菩提寺 慶長7年(1602)、弘前藩の祖・津軽為信は、病気の嫡男・信建(のぶたけ)を見舞うため、京に向かいました。しかし、為信の到着を待たず信建は病死し、為信本人も京の地で、その人生に幕を閉じます。
 その「津軽為信の霊屋」が、弘前市藤代にある津軽山革秀寺にあります。革秀寺は慶長12年に、2代藩主・津軽信枚(のぶひら)によって建てられました。
 門前には池があり、夏には美しいハスの花が一面を埋め尽くし、見る者の目を楽しませてくれます。蓮池を越えると山門が立ちふさがっており、山門の扉には、津軽家の家紋である七枚葉の杏葉牡丹(津軽牡丹)が刻まれています。
 山門をくぐり、右に目をやると、鐘楼があります。重厚な鐘楼の音は、今も革秀寺に眠る為信の魂を慰めているのでしょうか。
 そして、山門をまっすぐ進むと、本堂が見えてきます。国の重要文化財にも指定されている本堂は、茅葺きの屋根やウグイス張りの廊下が歴史を感じさせます。
 本堂の左手には、為信の霊屋があります。建立された当時は質素なものであったようですが、文化年間の修理によって、現在の極彩色の華やかな姿になったようです。現在、非公開となっている霊屋内部の壁は、板卒塔婆に囲まれており、そこには宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる供養塔が安置されています。
 革秀寺は今もなお、為信の威光を感じることができる場所となっています。
(アラン・スミシー)

〈参考文献〉青森県史資料編/近世㈵








より大きな地図で 青森歴史街道探訪 津軽編MAP を表示


より大きな地図で 青森歴史街道探訪 津軽編MAP を表示

ページのトップへもどる

動画

ページのトップへもどる

コラム 為信の死に思う「真実」の行方

 津軽為信は、京都でその生涯を終えました。  一般的には、病床に伏した嫡男である信建を見舞うために京に行き、その京の地で為信も倒れた、ということになっていますが、こんな説もあります。本当は、病を患っていた為信が、自身の体を京の医者に診せたかった。
 為信は、石川城攻略の時には、夜襲を仕掛けるなど、奇襲を多用します。自分の家臣さえ信用できない男です。そんな男なら、京都に行く理由も自己中心的かもしれないと思うのもむべなるかな。
 日頃の行いを気を付けないと、どんな行動をとっても悪くとられかねないということですね。(アラン・スミシー)

参考文献  青森県史 資料編 近世� 新青森県史 資料編2 古代・中世

ページのトップへもどる