津軽篇・安土桃山時代/第22話

堀越城 青森県弘前市堀越。弘南バス・堀越バス停を降りると、赤い鳥居と、堀越城址と書かれた石碑が見えます。この鳥居を抜けた先にある熊野宮の境内が堀越城の本丸跡です。
 堀越城は建武3年(1336)、南北朝時代に曽我貞光によって築かれたとされています。その後、種里城主・南部光信が文亀2年(1502)に大浦城を築いて津軽平野に進出した頃、堀越城は南部の支城になったと思われます。元亀2年(1571)、津軽統一を目論む大浦為信は、この堀越城を前線基地として利用し、南部高信を城代とする石川城を攻撃し落城させます。
 文禄3年(1594)、津軽平定を成し遂げた為信は大浦城から堀越城へと本城を移し、城下の町割りを始めました。しかし、平川沿いの低湿地を利用した堀越城は、洪水などの水害が頻発し、適切な立地条件ではなかったようです。その後、2代藩主・津軽信枚が慶長16年(1611)に弘前城へ本城を移すまでの17年間、堀越城は津軽氏の本城でしたが慶長20年(1615)の一国一城令により廃城となります。
 本丸跡は熊野宮の境内や公民館の敷地になっており、堀跡や土塁などの遺構も広範囲に渡り残っています。現在、史跡公園として整備しているため、断続的に発掘や工事が行われております。(サト)

〈参考文献〉青森県史資料編/近世1
      為信戦跡








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コラム 一国一城令

 一国一城令とは、江戸幕府が諸大名に出した、基本的に1つの国に1つの城しか保有が認められない制度です。大名の勢力(軍事力)を統制して、徳川家による全国支配を強化することを目的としていました。慶長20年(1615年)大阪夏の陣直後、徳川家康の意向により2代将軍:徳川秀忠が定め、諸大名あてに居城以外の分国中の城をすべて破却するよう命令しました。この指令は、無断での居城修補を禁じるとともに,新規の築城も厳禁しました。主に外様大名の多い西日本を対象とし、数日のうちに約400の城がこわされたといいます。これにより安土桃山時代に3,000近くもあったといわれる城郭が約170まで激減し、結果として家臣団や領民の城下町集住が一層進んだとされています。(サト)

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