津軽篇・安土桃山時代/第20話

大浦為信、秀吉から津軽支配を認められる 弘前城北東の位置に弘前八幡宮があります。天文14年(1545)、津軽為信の義父である大浦為則が大浦城の近隣に建造したといわれています。この八幡宮はもともと、大浦(旧岩木町)にありました。それを為信の子、弘前城を築いた津軽信枚が移築し、弘前城の鬼門である北東の守護社としました。
 南部氏から独立するため叛旗を掲げ、津軽一帯と外ヶ浜、糠部郡の一部を手中にしていた大浦氏5代当主・為信は、関白・豊臣秀吉に津軽支配を認めてもらうため、早くから名馬や鷹を贈るなどの工作をしていました。
 そして、天正18年(1590)小田原征伐の際に、いち早く秀吉の陣中を訪れ、津軽支配を認める朱印状を受け、津軽三郡と合浦一円の所領を安堵されました。
 一方、為信に津軽を奪われた南部氏26代当主・信直は、為信は私戦を禁止した惣無事令に違反した逆徒であると、秀吉に訴えましたが、すでに津軽支配を認める朱印状を授けた後で、訴えは退けられました。
 為信は祖父・大浦政信が、近衛尚通の子であることを利用して、孫にあたる前の関白・近衛前久に接近し、財政支援を申し出て猶子となっていました。そして、本姓を藤原とし、近衛家の家紋「杏葉牡丹」の使用を許され、同時に姓を津軽に改めました。このことが、朱印状を受け、南部氏の訴えを退けることができた要因になったともいわれています。
 こうして、為信は関白と縁戚関係となることや、有力大名へ貢物を贈るなどの工作を駆使し、当時の政権における人脈を作ることで津軽家繁栄の基礎を築いたのです。(haru)

〈参考文献〉青森県歴史散歩  物語南部の歴史
      続津軽の夜明け上巻  津軽一統史




より大きな地図で 青森歴史街道探訪 津軽編MAP を表示

ページのトップへもどる

動画

ページのトップへもどる

コラム 津軽氏と政権を握る者との縁戚関係

 弘前藩の始祖・大浦(津軽)為信は、祖父の大浦政信が関白・近衛尚通(�)の子であるということを利用し、近衛家の猶子(�)となって政権を握る者と縁戚関係となることで中央との結びつきを強化しました。
このこと以外にも津軽家では血縁関係を築いていますので、検証してみます。
1.津軽信枚(代藩主)の正室は徳川家康養女。側室は高台院(�)養女で石田三成の3女。
2.津軽信政(4代藩主)の娘は松平信清(鷹司松平家3代当主�)の室。
3.津軽信寿(5代藩主)の正室は松平忠尚の養女(御家門�の一つ)。
4.津軽信寧(7代藩主)の正室は松平明矩の娘(御家門の一つ)。
5.津軽信明(8代藩主)の正室は松平朝矩の娘(御家門の一つ)。
6.津軽信順(10代藩主)の正室は近衛基前の娘。側室は徳川斉匡(田安徳川家�)の 長女、次女。
7.津軽承昭(12代藩主)の継室(�)は関白内覧(�)・近衛忠煕の娘。娘は徳川義恕 の(尾張徳川家14代当主の11男)室。

  以上のように弘前藩津軽家は中央政権との結びつきを強固なものとし、この血縁を利用し、 藩に与えた利益は計り知れないものがあります。

�~�の説明
�近衛家 摂政・関白となることができる5摂家の一つ。
�猶子(ゆうし) 家柄の良い家の義理の子なること。養子とは違い家督を継ぐことはない。 この場合は5摂家の一つである近衛家の義理の子となり藤原姓を本姓とし、 近衛家の家紋を使用することを許されます。
�高台院 豊臣秀吉の正室(ねね)
�鷹司松平家 5摂家の一つ鷹司家から徳川家へ娘がと嫁ぎ、その弟が親族として松平 姓を名乗ることを許されました。
�御家門 徳川将軍家、家康の兄弟や娘などの家系の大名・旗本。
�田安徳川家 徳川御三卿(将軍家・徳川御三家に後継ぎがない場合、養子を提供して いる)の一つ。
�継室 正室の後妻(側室の繰り上げではない)。
�内覧 天皇に渡される公式文書を事前に検閲する。 ※ 松平家はいずれも徳川家の一族です。
(haru)

ページのトップへもどる