津軽篇・安土桃山時代/第19話

大浦為信、飯詰高楯城を攻撃 青森県五所川原市飯詰。昔、下之切(しものきり)街道とよばれていた県道26号線は中世から存在していたとされる幹線道路です。この街道は、市浦から中里、金木、飯詰を通って、藤崎、弘前へと抜けます。現在でも、大泉寺、法林寺、長円寺など、歴史ある寺院が立ち並んでいます。戦国時代には港と都市を結ぶ交通の要所であり、都市的な役割を果たしていた町場であったと考えられています。
 下之切街道を山手に登っていくと、飯詰城跡が見えてきます。別名・高楯城とも呼ばれた飯詰城は孤立した58.8mの飯塚山に築城されます。飯詰城は、興国5年(1344)、朝日景房が浪岡の北畠氏の配下として、津軽の守りを固めるために築城しました。石垣を築く代わりに高地を段々畑のように切り崩し、周囲を堀で固めた本城を中心とした平山城です。現在、西館の跡地には、昭和51年に建造された「あすなろの家」という、かつての城を意識した建物を見ることができます。
 リンゴ畑を抜け、鬱蒼とした木々の中を登っていくと、一番高い所に位置する主郭跡につきあたります。その奥に、ひっそりと建つ招魂碑と石碑を見ることができます。築城から240年間にわたり領民統治の場とされた飯詰城。しかし、天正16年(1588)に大浦為信は水脈をたち、飯詰城を攻め落とします。10代目城主・朝日行安は糠塚川に鎧兜を捨て逃れようとしましたが力尽き、家来共々自害して亡くなったといわれ、現在でも鎧留の名が残っている場所があります。
 こうして大浦為信の17年間に渡る長い戦いは終わり、津軽統一を果たしたのです。(芳賀)

〈参考文献〉飯詰村史
      五所川原市史通史編1
      青森県の歴史散歩
      飯詰観光(第一巻)高楯城物語り




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コラム 長円寺の梵鐘

 青森県五所川原市飯詰にある長円寺には、江戸時代中期の梵鐘が掲げられています。 青銅製で、上部には、東西南北に、笛、太鼓、笙(ショウ)、琵琶を奏する4人の天女が刻まれており、下部には牡丹唐獅子の浮き模様が施されています。この梵鐘は、県指定文化財に指定されており、沈鐘の伝説が残されています。  弘前長勝寺第14世・聖眼雲祝和尚が長円寺を開山したあと、長勝寺と長円寺へおさめられるべく、2つの鐘が京都を旅立ちます。梵鐘は、正徳6年(1716年)に京都三条釜座の名工・近藤丹波藤吉が鋳造したものです。青銅造りで鐘の響きや彫刻などが優れていることから名鐘とされています。
 船に積まれた鐘は日本海を北上し、十三湊に入ったところで嵐に遭い、船は沈没してしまいます。長円寺の雄鐘は引き上げられますが、雌鐘は引き上げるすべがなく、海の底に沈んだままとなり、鐘は十三湖の主となります。 それ以来、長円寺へ運ばれた鐘を撞くと湖底の鐘が、かすかに響きを立てて答えるという「湖底の鐘」の伝説がうまれたのです。    
  更に、寛永元年に、異国船に備えるための大砲鋳造(ちゅうぞう)、昭和18年の第二次世界大戦に行われた金属回収と2度に渡り徴用されましたが、村人の切願によって、供出を免れた鐘としても有名です。(芳賀)  

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