津軽篇・安土桃山時代/第16話

大浦為信、外ヶ浜攻略  青森県青森市の一帯は、古くは「外ヶ浜」とよばれていました。天正13年(1585)に油川城を攻略した津軽為信はその勢いに乗り、一気に外ヶ浜を攻略していきます。
現在、油川城跡は畑や木々に囲まれており、遺構はほとんど残っていません。為信は、油川を攻略した翌日、外ヶ浜の諸城主に降参を促しました。高田城主と荒川城主は敵わないとみて無条件で降伏しました。高田城は、青森市高田字日野のバス停を降りると目の前に標柱が見えてきます。荒川城は、文献ではあったと伝えられていますが、現在まで正確な場所はわからず、謎に包まれています。蓬田城主・蓬田氏は平将門の後裔とされています。有名な武将の血筋とされていますが、油川城が陥落したことを聞き、城を明け渡し南部に逃走しました。また、横内城主、堤弾正左衛門は、城を棄てて、近郷にひそみ、鉄砲で為信の命を狙っていましたが、まもなく発見され、為信の配下によって射殺されたといわれています。この為、外ヶ浜一帯は戦乱に巻き込まれることなく、平定されたのです。
 青森市安方にある善知鳥神社には、堤弾正左衛門との繋がりがあります。神社内には善知鳥沼があり元々は荒川、入内川が流れ込んでいた湖沼でした。しかし、横内城主、堤弾正左衛門が外敵を防ぐ為に川の流れを変え、堤川に流したことにより、次第に干上がり、干拓されました。
 こうして、為信は外ヶ浜を平定し、また一歩津軽統一に近づきました。しかし、攻略しなければならない諸城はまだあり、為信の野望は続くのです。(メガネ)

〈参考文献〉つがるの夜明け 
      青森県史近世1 



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コラム 平将門

 蓬田城主の蓬田越前守則政は、平将門の後裔です。平将門といえば、知らないという人は少ないかと思いますが、どのような人物だったのかを書いていきたいと思います。平将門は平安時代中期に活躍した関東の豪族です。正確な生年は不詳です。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされることから、903年と884年頃とする説もあります。
  平将門は、自分の野望から国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となります。しかし、即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました。これが承平天慶の乱です。  平将門は日本で最初の日本刀を発明した人ともいわれ、江戸時代などに使われた日本刀とは違い、刀身が長く「太刀」分類されたものです。日本刀、槍などはほとんどの人が聞いたことはあると思いますが、平将門の「太刀」から発展したものもあり、「長巻」、「薙刀」があります。  平将門の首塚の周りでは様々な出来事があり、中世では天変地異が何回も起きたり、様々な伝説や逸話があります。
 この伝説や逸話により、英雄扱いになったり、悪者扱いになったりもします。(メガネ)

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