津軽篇・安土桃山時代/第15話

大浦為信、油川城攻め 青森市油川は、中世から続く「外ヶ浜」を代表する湊町で海岸部の大浜には、多くの船が出入りしていました。そして、油川城があったとされる場所です。
 弘前藩の記録によると、羽柴秀吉が関白に就いた天正13年(1585)、油川城は大浦為信の攻撃によって落城したとされます。為信は一戦も交えることなく油川城を攻略したとあります。油川城主・奥瀬善九郎は少人数の部下とわずかな軍資金をもって田名部方面へ逃れたそうです。
 現在、城の周辺は畑地と植栽地になっています。城は水田との高さが低い場所に築かれていたようで、わずかに堀跡や土塁の痕跡が残っており、四方の外壁に囲まれた城であったらしいのですが、どのような建造物があり、どのような生活が営まれていたのかというような記録はほとんど無いそうです。
 この場所より約15
kmほど離れた蓬田城も油川城落城と同時期、為信の支配下に入ります。城主・蓬田氏も南部に逃れたことにより廃城となります。
 油川の浄満寺は奥瀬氏の菩提寺でした。本堂の裏手には、奥瀬氏の墓とされる五輪塔があります。境内には青森湊を開いた森山弥七郎の供養塔、天明の飢饉の犠牲者を埋葬した千人塚があり、寺宝の円空作「木彫釈迦牟尼如来坐像」(もくちょうしゃかむににょらいざぞう)は青森市指定文化財になっています。
 油川は海上交通を中心に発展してきた町とされています。現在の青森市のルーツを考えるとき、中世後期における油川城・大浜湊の存在は、ますます重要となってくるのではないのでしょうか。(サト)

〈参考文献〉新青森市史資料編2



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コラム 津軽一統志

 「異聞録」によれば、南部奥瀬判九郎が油川に下って油川城の代官になったといわれています。取材のため油川城があったといわれる場所へいったのですが現在、油川城の痕跡はほとんどなく畑になっていました。近隣の住民に話を聞いてみた結果、土塁の跡を確認することができました。油川城は水田との比高10m程の低丘陵に築かれているため、遠くから見ると城のあった場所であったと認識できます。
 話は変わりますが、シナリオに登場する『津軽一統志』はいったいどのような書籍なのか調べてみました。津軽一統志は享保12年1727年(1727年)、弘前藩5代藩主津軽信壽(つがるのぶひさ)が重臣喜多村政方に命じて編纂が進められたといわれています。しかし、2年後に政方が急逝したために桜庭正盈・相坂則武・伊東祐則の3名が引き継いだそうです。彼らは藩内の旧家・寺社の古文書を蒐集するとともに、津軽為信の津軽統一に従った家あるいは為信と敵対して後に津軽氏に従った家に対して史料の提出を求め、その史料を元に制作していたと考えられます。(金さん)

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