津軽篇・安土桃山時代/第14話

六羽川合戦 青森県平川市の水田地帯の中で木に囲まれてひっそりと石碑が立っています。その石碑には『田中太郎五郎戦死之跡』と刻まれており、六羽川合戦(ろっぱがわかっせん)での田中太郎五郎の武功を語り継ぐため、彼の子孫が建立したものです。
 天正7年7月4日、六羽川において安藤氏の命を受けた比山勢と大浦勢の戦が行われました。比山勢は援軍と合流して、乳井建清(にゅういたけきよ)が城主を務めていた乳井城・乳井茶臼舘・乳井古舘に攻め入り、次々と城を攻め落としました。
 弘南線平賀駅を4kmほど南下すると落城した城のひとつ、乳井茶臼舘跡があります。近くの乳井茶臼舘展望台の看板に従って坂を登ると、そこには茶臼館城跡と書かれた東屋が建っています。見晴らしの良い展望台からは周囲が一望でき、戦場の面影は何も残っていません。
 茶臼舘跡から北へ10
kmほど進むと熊野宮が見えてきます。ここは田中館跡と呼ばれており、かつて田中宗右衛門宗久が居館としていました。その父が冒頭の石碑にある、田中太郎五郎であり、彼のとった行動が六羽川合戦の勝敗を分けたといわれています。田中太郎五郎が大浦為信の身代わりとなって討ち死にし、比山勢の油断を誘い、戦況を変えたのです。この功績によって、宗久は田中館を築くことができましたが、一代限りでこの地を去ってしまいました。
 合戦で奪われたものも、武功で手に入れたものも、すべては朽ち果ててしまいました。六羽川の水は、今日も静かに流れていきます。
(アラン・スミシー)

〈参考文献〉つがるの夜明け  津軽為信

茶臼館展望台への登り口
田中館跡とされる熊野宮(弘前市)
熊野宮の拝殿







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コラム 六羽川の今

 合戦の舞台になった六羽川という平川市に流れている川が現在どのように使われているのかを調べました。 六羽川側沿岸には乳井城や大光寺城、高畑城といった城があり、それぞれ南部側と津軽側に分かれていたため合戦の舞台となったと予想できます。引座川との合流地点では畑や田んぼで必要のなくなった水や雨水などを引座川まで運んで、洪水から作物などを守る大切な役割をしています。
  滝本堰頭首工では、六羽川が約200ヘクタールの畑や田んぼに水を送る役割をしています。鉄の扉でせき止めており、必要な時に扉を開け供給する仕組みとなっております。大きなゴムのチューブを空気で膨らませて川の水をせき止めており、魚が頭首工の上下流に行き来するための魚道と呼ばれているとなっています。
  平川第一頭首工は六羽川に流す水を平川から取り入れるための頭首工であり、魚が頭首工の上下流に行き来するための魚道となっております。早瀬野ダムが六羽川の水源となっております。大鰐町から五所川原市までの3市3町1村に跨る約5,000ヘクタールの畑や田んぼに水を送っている農業用ダムです。以上のように六羽川は現在、近隣の農業を支えている川となっております。(メガネ)

参考文献:水土里ネット津軽平川
アクセス日:平成25年8月7日 http://www.hirakawa.ecweb.jp/

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