津軽篇・室町時代/第9話

大浦為信、大浦城主になる  青森県弘前市、五代早稲田に弘前市立津軽中学校があります。かつて、この場所には大浦城がありました。大浦城は津軽家の祖とされる大浦光信が築き、その5代城主が大浦氏の養子となった大浦為信です。のちに為信は、津軽為信と名乗り、弘前藩初代藩主となるのです。
 なぜ、養子である為信が大浦城主になったのか、それには理由があります。3代目城主・大浦政信が天文10年(1541)に和徳城を攻めた際に討ち取られました。そして、4代目・為則はとても病弱で、武将の素質がなかったといわれています。為則の弟、守信は南部家相続問題での内乱により、戦死しました。このような様々な出来事により、為信は養子として迎え入れられ、大浦城主となりました。
 大浦城は微高地に築かれた城です。城の規模は東西500メートル×南北250メートルほど。六つの曲輪(くるわ)から構成されています。中央北側を本丸とし、本丸を曲輪で囲い、そこから更に曲輪を囲うようにして作られています。この城の構造は弘前城にも通じるものがあり、城の曲輪の形状がよく似ています。為信が当時の最新築城技術を大浦城に導入していたことがわかります。近年までは城の全体の形が明瞭に残っていましたが、今では学校の改設や道路建設、宅地化の進展により多くの遺構が失われています。 
 大浦城は既にその存在はありません。為信が津軽統一するための第一歩とした大浦城。ここから為信の快進撃が始まっていくのです。
(メガネ)

〈参考文献〉つがるの夜明け



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コラム 為信の妻、阿保良(おうら)姫

 為信の正妻、阿保良(おうら)姫。またの名をお福の方や戌姫と呼ばれていました。津軽為信は14歳の時に、この阿保良(おうら)姫と出会い、その後結ばれました。この阿保良(おうら)姫との夫婦関係はとても仲睦まじいものだったようです。合戦の際には、家臣たちにおにぎりをひとつひとつ配って回り、士気を高めました。また、飢饉の時には、粗末な着物を着用して、民衆には穀物や薬を与えました。為信の縁の下の力持ちだったことが想像されます。(芳賀)

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