津軽篇・室町時代/第8話

為信の出自 大浦為信、後の津軽為信の軍配にかかれた文字「不制于天地人」(てんちじんにせいせられず)は、為信の生涯の人生観でした。誰の支配にも屈しない、といった意味です。およそ460年前の天文19年(1550)、為信は誕生しました。鬚殿(ひげどの)と呼ばれ、身長182cm程で頑健な体格と大きな顔。勇気と決断力併せ持つ非常に優れた人物だったようです。
 為信の出生には謎が多く、津軽家と南部家での為信の出自の見解が異なります。武田守信の子供とも、南部氏族の久慈治義の子供ともされています。しかし、豊臣秀吉から為信に送られた文書の宛名が、「南部右京亮(うきょうのすけ)」とあることから、南部氏の一族または家臣であった証拠の一つともいわれています。それぞれの大義名分のために都合良く書かれた記述は、現在でもどちらが正しいのか、はっきりとはわかっていません。
 革秀寺は、慶長3年(1598)、格翁舜逸(かくおうしゅいつ)の隠居所として藤崎町に創建されました。その9年後、現在の弘前市藤代に移されます。内部の扉や欄干の彫刻(天井の手法)などは、桃山風の手法を多く残し、古くからある貴重な建物です。為信は舜逸から普化鈴鈬(ふけれいたく)の禅を学びます。「普化鈴鈬」とは、死を恐れない心境に達することを指します。革秀寺の位牌に下がっている鈴は、為信が体得した普化鈴鈬の鈴といわれています。
 為信の軍配に書かれた「不制于天地人」という言葉は、舜逸の禅問答に対する答えだったそうです。いかなる敵をも恐れず、津軽を制した為信。この信念は、格翁舜逸と為信の二人の問答から育まれたのです。(芳賀)
〈参考文献〉新青森市史資料編2/古代・中世
      新編弘前市史資料編1—2/古代・中世編
      青森県史資料編/中世㈼
      つがるの夜明け
      津軽一統志  津軽太平記






より大きな地図で 青森歴史街道探訪 津軽編MAP を表示


より大きな地図で 青森歴史街道探訪 津軽編MAP を表示

ページのトップへもどる

動画

ページのトップへもどる

コラム 名前が変わる意味

 なぜ昔の人は名前が頻繁に変わっていくのか?疑問に思っている人も多いと思います。しかしこれには明確な理由があります。  まず、生まれたときに付けられるのが幼名。成人して元服(男)なり髪上げ(女)なりするときに実名(忌み名という。使われることは稀です)と通称を与えられます。そのあと主君を変えた際、女性ならば再婚した歳に改名するなど、様々な理由があります。人生の転機で生まれ変わったということで名前を変えるのです。
 忌み名とは公には明かされず、信頼できる近しい人たちにのみ知らされていました。 忌み名が知れ渡ると、その忌み名を使って呪術にかけられたり、意のままに操られると信じられていたそうです。  為信の場合は、扇(幼名)→弥四郎(実名)→為信(主君に仕える)→津軽為信(津軽統一の為、名字を改名)といったように変わっていくのです。(メガネ)

ページのトップへもどる