津軽篇・室町時代/第7話

種里城主・大浦光信 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町、赤石川を望む種里(たねさと)の小高い丘に、国指定史跡・種里城跡があります。
 種里城は、延徳3年(1491)津軽氏の始祖である大浦光信が、三戸南部氏の命により、津軽を逐(お)われた安藤一族の津軽奪還を阻むための拠点として築いた城です。
 光信は、安藤一族の攻撃をことごとく駆逐し、やがて、安藤一族が津軽奪還を諦めると、次には、津軽統一を目指したといわれています。しかし、光信は津軽統一を果たすことなく、大永6年(1526)、病のため67歳でその生涯を閉じることになります。
 光信が病に倒れて死期を悟った時、家臣で種里八幡宮の初代神官である奈良主水貞親(ならもんどさだちか)を枕元に呼び、「汝 冥途に先立ちて 我に供養せよ」と告げ、殉死を命じています。奈良主水貞親の墓は、種里城跡にある光信御廟所の近くにあります。
 また、光信は死の直前に「死後も西の備えたらん」と言い残し、光信の養子・正信に、「甲冑姿のまま、東南に向けて立たせ、種里城の一郭に埋葬するよう」命じたと伝えられています。死してなお、所領を守るため、睨みを利かそうという光信の思いが伝わってきます。
 光信が埋葬された御廟所には霊力があるとされ、かつて、領内に悪疫が流行した時に祈祷すると、たちどころに終息したといいます。また、光信の御廟所は、藩政時代から現代に至るまで、白木の柵以外は一切造らなかったのですが、これも質素を旨とした光信の遺言によるものと伝えられています。(haru)

〈参考文献〉弘前市史資料編
      国史跡種里城跡「光信の館」内由緒書


種里城跡にある歴史資料館「光信公の館」

種里八幡宮

種里城跡碑

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コラム 法名

 「法名」(ほうみょう)とは、故人に対して贈られる名前と誤解されることも多いが、正しくは生きている間に三宝に帰依し、仏弟子として生きていくことを誓い授かる名である。三宝に帰依するとは、神や仏を信じてその力にすがることです。法名は二字。歴代宗主・裏方の院号・法名と同一のもの、「如」の字を用いた物は許可にならないとされます。その為、光信も2文字の「長勝」となっています。 現代は法名、戒名は文字数の制限は特にないそうです。 今の世の中では法名を授かるには有料で、結構高額な金額がかかります。しかしこの料金にもはっきりとした金額は決まっておらず、相場になっているそうです。 私たちが知っている有名人にも法名、戒名を持っている人がいます。 石原裕次郎 (いしはらゆうじろう) 陽光院天真寛裕大居士 いかりや長介 いかりやちょうすけ) 瑞雲院法道日長居士 まだまだ他にもたくさんの例がありますので、調べてみると面白いですよ。(メガネ)

参考HP 有名人の法名

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