津軽篇・室町時代/第6話

青森県全域を南部氏が治める 青森県津軽半島北西部、日本海岸に十三湖があります。中世、博多や堺と並び称される最大級の港湾都市、「十三湊(とさみなと)」のあった場所です。
 室町時代、応永年間半ばの頃、津軽地方の支配をめぐって十三湊の安藤氏と北東北太平洋側に拠点を置いていた南部氏は激しく対立していました。
 応永25年(1418)南部氏13代当主・守行(もりゆき)は、安藤氏の居城である平賀の大光寺城を陥落、さらに藤崎城も攻略し、津軽平野中枢部は南部氏の支配に属しました。
 さらに、十三湊を手に入れようと守行の子・義政は、安藤氏当主・盛季(もりすえ)の居城である福島城を攻撃しました。しかし、容易には成功を見なかったため、盛季の娘を娶って、一旦和睦を結び、福島城攻略の機会を伺っていました。そして、永享4年(1432)娘婿として盛季に対面を申し出、十三湊へ赴き、警戒する様子がないとみると、急に福島城を攻撃したといいます。不意を突かれたため、堅固を誇っていた福島城も陥落し、盛季は近くにある唐川城へ退いて籠城して抵抗しましたが、大激戦の末、敗れてしまいます。さらに、小泊の柴崎城まで退き、ここでも敗れたため、とうとう津軽を追われ、松前へ渡ることとなります。
 こうして、津軽十三湊において栄華を極めた安藤氏は津軽の地を去り、津軽を手に入れた南部氏は、現在の青森県全土と北岩手、北秋田を所領とし、以後100年もの間、大浦為信の津軽統一が始まるまで支配することとなるのです。(haru)

〈参考文献〉新釈青森縣史前編
      新青森市史資料編/古代・中世






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コラム 南部氏家紋

 南部氏元来の家紋は、菱を4つ並べた「武田菱(たけだびし)」と呼ばれ、南部氏が甲斐源氏の一族であることを示しています。武田菱は、南部氏初代の南部光行の父、加賀美遠光の代から使用されているそうです。永承6年(1051年)、前九年の役の際、遠光の高祖父、源頼義が住吉神社に祈願し、神託により頂いた楯無鎧(山梨県甲州市に現存)にあった割菱文様に由来しているそうです。
 室町時代の応永18年(1411年)、南部守行は根城南部光経とともに秋田の安東鹿季と戦います。その陣中に二羽の鶴が飛来し、それを瑞祥として兵を進めたところ、勝利をおさめることができたそうです。戦後、これを記念して家紋を「二羽鶴」に改めたそうです。 二羽の鶴が向かい合った「向鶴(むかいづる)」は「双鶴紋(そうかくもん)」とも呼ばれ、おめでたいことの前兆から生まれたと伝えられています。(芳賀)

参考文献:物語 南部の歴史 中世編 

 

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