津軽篇・鎌倉時代/第4話

津軽の雄・安東氏 〜波紋〜 青森県西津軽郡深浦町。日本海に面する、人口およそ9500人の町です。深浦町には、千畳敷と呼ばれる海岸があり、平らに敷き詰められた岩場が、一面に広がっています。この地は、鎌倉幕府滅亡につながる安東氏の内乱の際、安東季長(すえなが)が城を構えた場所としても知られています。
 季長(すえなが)の城は、千畳敷にほど近い小高い丘を登ったところにあります。そこには、大きな杉の木がそびえ立っています。大きな杉は、関の杉と呼ばれています。遠くから見た姿が甕(かめ)のような形に見えるところから、甕杉(かめすぎ)とも呼ばれています。甕杉のそばにある石碑は周辺から集められたといわれています。甕杉のそばにある全部で32体ある石碑群は、南北朝争乱時に作られたもので、当時の安東氏の勢力をうかがい知ることができます。
 このほかにも深浦には、歴史を今に残すさまざまな場所が存在します。甕杉から、海沿いの国道を南西に30キロほど進むと、円覚寺があります。円覚寺の中にある寺宝館には、多くの歴史的遺産が、保存されています。 
 髷額(まげがく)は、航海を無事乗り切った船頭たちが、お礼参りに納めたもので、自らの髷(まげ)を絵馬にして奉納したものです。人々の生活の中に、信仰が深く関わっていたのを感じさせます。毛髪刺繍八相釈尊涅槃図は、1904年(明治37年)、8万4千人の毛髪を使用して、5年をかけて作成されたものです。繊細に織り込まれた刺繍は、見るものを驚嘆させます。
 深浦町には、中世から近代まで、歴史に思いをはせることができる、様々な場所が存在します。(アラン・スミシー)
参考文献
青森県史 資料編 中世
新青森市史 資料編2 古代・中世
出典:
「青森県の歴史」河出書房新社
弘前市史資料編
吾妻鏡







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コラム

 鎌倉幕府の滅亡につながったといわれる安東氏の内乱。1318年頃から起こったとされる、安東季長(あんどう すえなが)と安東季久(あんどう すえひさ)の内紛です。この紛争を鎌倉幕府が抑えることが出来なかったため、幕府の求心力が弱まり滅亡へと向かったといわれています。  この戦いの当事者である安東季長の城があったとされる深浦町の北金ケ沢へ取材にいってきました。その城跡は海沿いの町から一段あがった高台にあります。まず驚いたのは、情報伝達やや交通手段が発達していない時代に青森県でも辺境であるこの地域の争乱が鎌倉政権に影響を与えたという距離感の不思議でした。そして、そこには青森県の天然記念物に指定されている甕杉という巨木がたっていました。樹齢は千年とされています。高台にある小さな敷地。そこにいったいどのような形の城が築かれ、どのような出で立ちの人たちが住んでいたのか。そしてどのような会話をしていたのか。私は想像をめぐらせてみましたが頭の中に鮮明な映像をうかべることはできませんでした。調べてみてもこの時代の青森県に関する史料は絵図など残されていないため、具体的なビジュアルとして想像できないのです。  しかし、樹齢千年の甕杉は今からおよそ700年前の出来事である安東氏の内乱をリアルタイムで見ていることになります。安東季長とその配下の武将たちがこの杉の下で交わしたであろう会話も聞こえていたことでしょう。そのような思いを巡らしながらこの杉を改めて見上げると何か特別な感慨を感じてきます。  千年といえば私たち人間にとっては永遠と思えるほどの長い時間ですが、この甕杉もいつかは、寿命がつき朽ち果てるときがやってきます。私が生きているこの時代に甕杉に触れることができたことはとても幸運なことなのだと思いました。(金さん 出典:青森県史 資料編 中世)

参考文献:「青森県の歴史」河出書房新社  弘前市史資料編

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