津軽篇・鎌倉時代/第3話

津軽の夜明け 〜嘉元の鐘〜  青森県弘前市禅林街三十三ヶ寺。長勝寺を含む33の曹洞宗の寺院が集まる禅林街。禅林とは禅寺の事です。江戸時代初期、弘前城の防衛線として整備され、長勝寺構えとも呼ばれています。その最も奥に、津軽家の菩提寺である長勝寺があります。
  長勝寺の入り口にある三門。この門は修行の妨げになる心身の汚れを脱する門と言われています。この三門を入って左奥には津軽一族の霊屋が5棟一線に並んでいます。三門を入ってすぐ右手にある銅鐘。これは、青森県内で一番古い銅鐘です。嘉元4年(1306)と刻まれていることから、「嘉元の鐘」と呼ばれて国の指定重要文化財になっています。この銅鐘の寄進の大旦那は鎌倉幕府第9代執権の北条貞時とされています。嘉元の鐘には、何人かの人名が刻まれています。名を刻まれた人は、津軽に拠点を置く「得宗被官」と呼ばれる幕府の家来たちであるといわれています。
  その中の一人が源光氏。彼の名前は弘前市中別所の板碑にも残されています。ちなみに、板碑とは作られた人の来世の幸福を願って作られた卒塔婆(そとば)のようなものです。もう一つ、当時の鎌倉幕府と津軽の関係を裏付けるものがあります。それが鎌倉幕府の正当な歴史書とされる「吾妻鏡」。その第十巻に、津軽のことが書かれています。
  嘉元の鐘の存在。それは、中央政権の力が及ばない辺境の地であった津軽が、確かに中央政権の一員となった証拠ともいえるでしょう。嘉元の鐘は津軽の夜明けを告げる鐘でもあるのです。(メガネ)

参考文献:つがるの夜明け                   







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動画

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コラム

板碑の歴史

 第3話に出てきた板碑ですが、板碑の歴史は長く、鎌倉時代から江戸時代まで続いています。今回行ってきた撮影場所は、弘前市中別所だけでもおよそ20基。また、すぐ後ろの民家の隣にも少し新しい板碑が置かれてあります。この、何十基もある板碑は元々この場所にあったわけではなく色んな随所に置かれていたそうですが、誰が何のためにここに集めたのかは不明です。
 しかも当時の運搬技術で、この大きな石を運ぶのは大変な労力が必要だったことでしょう。弘前市中別所の板碑は実際に文字が読めるものはほとんどなく、大半が削れたりして全くと言ってもいいくらい読めません。一方で、源光氏の文字に限っては、不思議なほど鮮明に残っていました。それだけ来世の幸福への願いが強かったのでしょうか?現地に行くことがあればもう一回調べたいと思います。(メガネ)

参考文献:つがるの夜明け                                 

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