津軽篇・鎌倉時代/第2話

津軽萩野台の合戦 〜十三湊の覇権をかけて〜 青森県弘前市。岩木川の支流、平川が津軽平野を滔々と流れています。この平川沿いで、寛喜元年(1229 年)、津軽萩野台の合戦と呼ばれる戦があったとの伝説があります。
 津軽萩野台の場所は、現在の弘前市津賀野の平川と浅瀬石川(あせいしがわ)の合流点の近くだと言われています。この戦いは、十三湖の福島城に拠点を置く十三藤原氏と、藤崎を拠点とする安東氏の間で戦われたとされています。合戦は十三日間の短期で終わり安東氏の完全勝利であったといわれています。
 この安東氏が拠点としていたのが現在の藤崎町。その北側に位置する八幡宮。敷地内の片隅にひっそりと、「安東氏顛末記」の碑が建っています。国道7号線沿いの小高い部分が藤崎城の土塁とされ、標柱に「安東氏発祥の地」と書かれています。かつて奥州の覇者として君臨していた安倍氏。その一族が、この藤崎に居を構えた頃から安東氏と名乗り、ここが「安東氏発祥の地」とされているのです。
 青森市鶴ケ坂。この地に、十三藤原氏が、のちの津軽氏のルーツになったと言われる伝説があります。昔、戸建沢、現在の鶴ヶ坂に、炭焼き藤太いう若者がいました。この藤太は、萩野台の合戦の敗者、十三湊の藤原秀直の子供であったといわれています。合戦で敗れた際に、身の危険を感じた乳母により、幼くしてこの場所に身を隠されたとの事です。この七代後の子孫が、津軽家の祖とされる大浦光信であるという伝説です。
 この萩野台の合戦で勝利した安東氏は、この後、強大な力を持ってゆくのです。(芳賀)

参考文献:藤崎町誌第1巻P72
     市史研究あおもり8

                                            







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コラム

金売り吉次

 萩野台の合戦で敗れた十三藤原秀直の子とされる「炭焼き藤太」の伝説には、続きが あります。炭焼き藤太と京・右大臣の娘・あこや姫との間には3人の男の子が生まれます。その長男・吉次は「金売り吉次」と言われ、歴史に名を残すこととなります。
 
吉次は単なる金を売る商人ではなく、奥州藤原氏3代秀衡に仕え、大蔵大臣兼外務大 臣の役割も果たしていました。藤太と吉次親子が奥州藤原氏の黄金文化を支えていたと もいわれています。
  吉次の名を有名にしたのは、幼少の源義経(牛若丸)を京都の鞍馬寺から奥州へ導き、 秀衡に引き合わせたことです。その後、義経は兄・頼朝に命を狙われ、再び奥州を訪れることになりますが。  
  吉次の伝説には他にもいろいろありますが、その一つとして、墓が2カ所存在するこ とです。一つは福島県白河市白坂革籠の八幡神社に、もう一方は栃木県壬生町稲葉です。どちらが本当の墓なのかは、全くの謎です。  
  余談ですが、東北地方太平洋側で珍重される「きんき」というカサゴ科の美味な赤い 魚がありますが、別名を「きちじ」といいます。この「きちじ」は、あまり大きな魚で はありませんが、とても高価な魚です。「きちじ」という名前は「金売り吉次」からきているのでしょうか?
(haru)

参考文献 つがるの夜明け

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