津軽篇・平安時代/第1話

大河兼任の乱〈浅虫・古戦場〉 青森県青森市浅虫。青森市中心部から東へ約15キロにある温泉地です。浅虫温泉は慈覚大師、円仁上人が発見したとか、円光法師、法然上人が開いたという伝説があります。風光明媚な海辺のリゾート地です。その浅虫に善知鳥崎という岬があります。善知鳥崎は、昔は奥州街道でも有数の交通の難所でした。波の打ち寄せる岩に板がわたしてあり、烏頭前の梯(うとうまえのかけはし)とよばれていたそうです。
 その善知鳥崎にある善知鳥トンネルのそばにひっそりと一つの石碑が建てられています。その石碑には「一番古戦場」ときざまれています。ここは時の鎌倉政権と奥州藤原氏の残党である大河兼任らとの間で戦が行われた「大河兼任の乱」その最後の戦場と言われています。戦いは大河兼任軍が破れ一人落ち延びた兼任も後に打ち取られます。善知鳥トンネルの西側にはその顛末がかかれた案内板もたてられていました。
 この大河兼任の乱は鎌倉幕府の正史とされる歴史書「吾妻鏡」でもその記述を見る事ができます。今では交通も整備され、道の駅ができるなどリゾート地として有名な浅虫温泉ですが、今をさかのぼること約800年前に大きな戦があった古戦場であった事はあまり知られていません。(金さん)

出典:
「青森県の歴史」河出書房新社
弘前市史 「資料編」
吾妻鏡







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コラム

 大河次郎兼任が最後まで幕府に抵抗し続けたといわれる「大河兼任の乱(おおかわかねとうのらん」。この乱の鎮圧によって鎌倉幕府が誕生したと言われています。  大河兼任の乱古戦場跡を中心に、最後の合戦場といわれる青森市浅虫へ取材にいってきました。善知鳥トンネル付近にある古戦場跡の石碑を探している最中に「明治天皇御休所御跡」と書いてある石碑を発見しました。
 青森県のホームページに記載されている内容によると、明治天皇は東北北海道巡 幸の際に浅虫にある椿館に宿泊したと書かれていました。巡幸した明治9年以前 は、浅虫から青森へ向う方法として現在の善知鳥トンネル海側の、善知鳥崎という 波の洗う磯に板を渡した難所を通るか、山中を通るかしかなかったため、前年の明 治8年に開削工事が竣工し、久栗坂に至る道路が整備されたようです。
 明治天皇は全国を巡幸するのですが、国家権力の源泉たる天皇を超越的な精神的 権威として擁立するために天子信仰の人民への定着を意図したものといわれていま す。浅虫温泉は平安時代に発見されたとされる古い温泉地で、藩政時代には「御本 陣」(現柳の湯) が設けられたといわれていますが、道がきちんと整備されてなければ行く人も限られていた可能性はあります。そう考えると浅虫が観光スポットとなった根源は明治天皇巡航であったと言えるのではないでしょうか。この出来事から、明治天皇が国民に大きな影響力があったことが伺えます。  奥州藤原氏の残党として最後まで戦った兼任の石碑と全国統制を目論んだ明治天皇の石碑が近くにある善知鳥崎。両者の経緯を考えると感慨深いものがありますね。(金さん)

参考文献:「青森県の歴史」河出書房新社  弘前市史資料編

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