南部篇・明治以降/第35話

斗南藩 明治のはじめ、戊辰戦争に敗れた会津藩の人々が、下北半島のむつ市に移り住み、会津の再生を目指しました。会津藩改め斗南藩の歴史は、飢えと病に冒され、多くの犠牲を出した、苦しく辛いものでした。
 明治元年(1868)夏、京都から引き揚げてきた会津藩隊は若松城に篭城し、新政府軍への抵抗を続けますが、攻防の末、同年9月22日に降伏します。藩主・松平容保は謹慎の身となります。翌年、会津松平家は再興を許され、旧陸奥盛岡藩領への移住が決定。新たに斗南藩と称され、旧藩士とその家族1万7千人余りが陸路・海路を辿って新天地に赴きます。海路組の上陸地点の一つが大湊でした。斗南藩士上陸の地の記念碑には、会津鶴ヶ城の石垣と同種の石が使われ、会津の方角に向けて建てられました。
 斗南藩は下北半島の他、岩手との県境付近にも飛地の領地を持っており、当初は旧盛岡藩の五戸代官所に藩庁が置かれました。その後、下北半島の田名部・円通寺に移されます。円通寺境内には戦死した会津藩士を弔う招魂之碑があります。むつ市郊外の斗南ヶ丘には、藩士が復興を夢見た開拓地が斗南藩史跡地として残っています。当時は200世帯が暮らす街並みをつくる計画でしたが、現在は土塀跡が残されているのみです。
 気候の厳しさにより作物は殆ど育たず、過酷な生活の中で特に老人や子供が犠牲になったようです。明治4年(1871)廃藩置県が断行され、斗南藩はわずか1年で消滅。そのまま残る者、会津に戻る者、東京に移住する者。生活の糧を求めて藩士たちは進む道を決めていくのです。(サト)

〈参考文献〉会津藩斗南へ
      会津・斗南藩史






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