南部篇・明治以降/第33話

戌辰戦争の中の野辺地戦争 野辺地町の県道243号線沿いに、野辺地戦争戦死者の墓所があります。野辺地戦争とは、戊辰戦争のうちのひとつを指します。戊辰戦争は、幕府の失政を追及する薩摩・長州などの雄藩連合が、天皇親政の復活を名目にしかけた内乱のことです。
 慶応3年(1867)、徳川幕府15代将軍徳川慶喜は、大政奉還を行い、政治の実権を天皇に返しました。新政府から慶喜が外され、厳しい処分も下ったため、翌年、幕臣らが蜂起しました。これに会津藩・桑名藩も加わり、戦闘は激しさを増しました。これが戦争の幕開け、鳥羽・伏見の戦いです。この戦いは新政府軍の勝利に終わり、のちに江戸城無血開城、慶喜の水戸謹慎という結果になります。
 江戸を支配下に置いた新政府軍でしたが、東北の諸藩が奥羽越列藩同盟を組み、抵抗します。この東北での戦争の1つが、野辺地戦争です。野辺地戦争は、明治元年(1868)9月23日、新政府軍に盛岡藩討伐を命じられていた弘前藩が盛岡領の馬門村に放火したことから幕を明けます。弘前藩は途中で奥羽越列藩同盟を脱けて新政府軍側に付いたので、不信感を持たれていました。そこで、新政府軍側としての戦績を残したかったようです。結局、弘前藩は、八戸藩の協力を得た盛岡藩に撃退されて退却します。
 実のところ、盛岡藩は9月20日、新政府に降伏表明し、22日に正式に受け入れられていたので、盛岡藩は既に新政府軍に抵抗する意思はありませんでした。野辺地戦争は、わずか1日で終わった小規模な局地戦でした。
(アラン・スミシー)

〈参考文献〉みちのく南部八百年
      戊辰戦争論
      戊辰野辺地戦争の悲運
      三戸町通史







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