南部篇・江戸時代/第32話

南部領の飢饉と蛇口伴蔵の情熱 八戸市南郷区の世増(よまさり)ダム。ここに、彼方を指さし、遠くを見つめる男の像が建っています。彼の名前は、蛇口伴蔵。南部領の水利事業に尽力した人物です。
 南部領は幾度か飢饉に見舞われました。天明の飢饉や天保の飢饉です。飢饉では多くの餓死者を出しました。人々は飢え、強盗などが多発し、領内は荒れましたが、幕府の取り締まりもままならない状態でした。
 天保の飢饉から遡ること24年、蛇口伴蔵は八戸領の侍として誕生します。蛇口は自分の財産を増やすことにこだわり、周囲からは、ケチ、商人侍、などと蔑まれていました。しかし、そこには蛇口の固い意志がありました。 蛇口は蓄えた財産を投じ、飢饉に苦しみ、厳しい自然環境にある南部領のため、運河の開発をしようとしていたのです。また、単なる守銭奴ではなく、三本木開拓を進める新渡戸伝に無償で資金援助するなど、開発のための出資は惜しみませんでした。
 白山上水計画も彼の計画のひとつでした。この計画は、水路は完成したものの十分な水が確保できず、あえなく失敗に終わりました。蛇口はそれでも諦めず、他の計画も手掛けたものの、いずれも失敗に終わりました。当時の技術では蛇口の発想を具体化することは困難でした。さらに悪いことに、蛇口自身も病を患い、計画を中止した2年後の慶応2年(1866)、この世を去ります。戒名は活山治水居士とつけられ、大慈寺に眠っています。
 蛇口は、結局、大きな功績は残せませんでしたが、2003年に完工した八戸市新井田川の世増ダムに蛇口伴蔵の像があるのは、蛇口の情熱と構想が後世に引き継がれてきた証しだと言えるでしょう。(アラン・スミシー)

〈参考文献〉みちのく南部八百年
      青森県史資料編/近世5






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