南部篇・江戸時代/第31話

相馬大作事件 寛政元年(1789年)2月21日、盛岡藩二戸郡福岡村、現在の二戸市に下斗米秀之進、後の相馬大作が誕生。武芸に長けた秀之進は江戸で平山行蔵に入門します。その腕前は平山道場の師範代も務めるほどでした。文武両道を極め、世界情勢を学んだ秀之進は、二戸に帰還し兵聖閣演武場を開きます。
 文政4年(1821)、江戸から帰国途中の弘前藩9代藩主・津軽寧親(やすちか)の狙撃未遂事件が発生します。この時期、津軽家の家格が南部家を上回り、盛岡藩主・南部利敬(としたか)が愚痴をこぼしたのが、事件の発端と言われます。秀之進は利敬の思いを汲んで行動を起こしたようです。しかし、秀之進の真意は、単なる南部家への忠義だてではなく、津軽・南部両家和解の上、協力して北方警備にあたるよう自覚を促すことであったとされています。秀之進は津軽寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、従わない場合には暗殺すると伝えます。しかし、仲間の密告により計画が洩れ、未遂に終わります。
 暗殺の失敗により、相馬大作と名前を変えて江戸に隠れ住み、後に捕えられ処刑された秀之進。この相馬大作という偽名が事件名の由来となっています。当時の江戸住民は、南部家に忠義をたてた大作の行動に大きな感銘をうけ、講談や小説・映画・漫画の題材として事件を採り上げました。この事件は、みちのく忠臣蔵や赤穂浪士の再来とも呼ばたそうです。さらに吉田松陰にも影響を与え、松陰は長歌を詠み大作を讃えています。(芳賀)

〈参考文献〉相馬大作事件の真相  下斗米将真伝
      忠孝節義相馬大作  下斗米大作実伝
      相馬大作と津軽頼母  相馬大作伝
      国史大辞典第七巻
      二戸市立二戸歴史民俗資料館提供提供資料
          「北方防備の下斗米秀之信(相馬大作)」








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