南部篇・江戸時代/第28話

野辺地代官所 野辺地は、津軽領の平内と境界を接する南部氏にとって軍事上重要な場所でした。現在の野辺地町中央公民館など、公共施設が並ぶこの場所に、野辺地城があったと記録に残っています。築城時期、築城主ともにわかってはいませんが、南北朝期には、七戸南部氏の一族、野辺地氏が下北・上北統治のため居住したといわれています。
 天正19年(1591)、九戸の乱で七戸氏が没落し、野辺地城は三戸南部氏に接収されます。慶長3年(1598)の館持支配帳には「野辺地館2千石 石井伊賀」とあり、石井氏は津軽に対する抑えとして配属されたとみられています。その後、小軽米氏、日戸(ひのと)氏が相次いで城代となります。城代とは、城主に代わって城を管理し、政務を代行する者のことを指します。城代を務めた日戸内膳行秀の墓は、町役場に近い常光寺で見ることができます。内膳は父に引き続き、野辺地城代を務めています。貞享元年(1684)、城代に代わり、代官が置かれるようになり、野辺地代官所が置かれました。
 城跡に建つ野辺地町立歴史民俗資料館では、野辺地の考古、歴史、民俗などに関する資料を展示しており、歴史と生活文化の移り変わりを見ることができます。展示室には野辺地代官所に関するゆかりのものが展示してあります。
 野辺地は江戸時代に盛岡藩の湊町として発展し、領内の大豆、銅などの物資が北陸、瀬戸内海、関西など日本海航路の湊町に積み出されていました。その北前船による航海、交易に関する海運資料、江戸時代の北方探検家最上徳内に関する資料、戊辰戦争に関する資料などの近世から近代までの資料も展示してあります。(芳賀)

 〈参考文献〉野辺地町史通説編/第一巻
       野辺地雑記








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