南部篇・江戸時代/第27話

南部氏の代官たち 盛岡藩では領内の郷村支配のため、代官統治地区を「通」(とおり)と称し、1通には藩から代官2名を派遣し、統治していました。通は検地が進むにつれ整えられて、享保20年(1735)に確立、10郡33通となっていました。盛岡藩の青森県部分には2郡5通があり、三戸郡に五戸通・三戸通が、北郡に七戸通・野辺地通・田名部通が置かれていました。
 五戸代官所は文禄4年(1595)頃、領国支配に乗り出した三戸南部氏26代当主・南部信直が木村杢之助秀勝に命じて、代官所周辺の町場と一緒に造成させたものと伝えられています。代官所には代官2人のほか下役・帳付・野馬別当・牛馬役などが置かれました。五戸通29ヶ村の総石高は慶安5年(1652)には約1万4千石でした。明治2年(1869)には一時、斗南藩(旧会津藩)の藩庁でした。五戸町立図書館に併設された歴史みらいパークには、五戸代官所が復元されています。文久年間頃の平面図を基にしたものです。
 三戸代官所には、代官2人、下役などの他に、植立奉行・漆木奉行・御古城掃除奉行・鷹巣御用懸・別段廻役等の特別な役人も置かれました。三戸歴史民俗資料館には藩主から代官にあてた御古城掃除についての書状が残されています。三戸通33ヶ村の総石高は安永9年(1780)には約1万2百石でした。野馬別当であった一戸五右衛門の屋敷跡には、五右衛門の祖先である一戸兵部綱定が藩主から賜った盆栽を五右衛門自ら植えたという関根の松が残っています。三戸代官所があった場所は、現在、三戸福祉会館に、代官所の門は、観福寺の山門に姿を変えています。(haru)

〈参考文献〉青森縣史(五)  五戸町史  三戸町史
      青森県の歴史散歩








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