南部篇・江戸時代/第26話

藩境塚 奥州街道のほぼ終着地点にある野辺地町は、津軽領と南部領との境でした。柴崎地区、国道4号線沿いにある藩境塚は、江戸時代に南部領と津軽領との境界の目印として築かれた塚です。塚の底面直径約10m、高さ約5mで、南部と津軽にそれぞれ2基ずつ、合わせて4基あることから四ツ森とも呼ばれています。築造時期は明らかではありませんが、元禄14年(1701)、津軽領と南部領で確認した絵図には、両藩ともに藩境塚が書かれています。塚と塚の間を流れる二本股川が印とされていましたが、山中の境界が曖昧なため、たびたび論争が起きていたといわれています。
 現在、藩境塚には番所風の建物と「馬門御番所(まかどおんばんしょ)」と書かれた木の門があります。隣には「覚(おぼえ)」と書かれた縦2枚の高札が建てられており、番所の取り締まりについて書かれています。領内から武具類や鉄製品、特産品などを手形なしで他所へ持ち出す事を禁止し、違反者を捕らえた者は褒美を与える旨のことが記されており、覚書の最後には南部領家老の名前が記されています。
 野辺地町の東側、愛宕公園には数々の文人に関わる石碑があり、俳句が盛んな地であったことがわかります。その中の1つに松尾芭蕉のものがあります。「花ざかり山は日ごろの朝ぼらけ」この句は、貞享5年(1688)、芭蕉が桜の名所・吉野山で詠んだものです。彼を尊敬する野辺地の俳人らによって、文政12年(1829)に愛宕山に建てられました。
 野辺地町は古くから南部と津軽の境として重要な町であったばかりではなく、独特の文化を育んだ地でもありました。(金さん)

〈参考文献〉野辺地町史
      野辺地町ホームページ
      ブログ『南部藩と津軽藩の
           境界に築かれた「藩境塚」の巻』







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