南部篇・江戸時代/第25話

根城南部氏、遠野・横田城へ移封される 根城南部家は戦国時代に三戸南部家(南部本家)の家臣となり、八戸氏と称しました。
 寛永4年(1627)、22代当主の八戸直義は、本家の27代当主・南部利直から遠野・横田城への移封を命じられました。八戸氏の権威と家格により、横田城下の不穏な動きを封じることと、藩境を接している伊達藩に対する警護の任にあたらせることが理由でした。
 直義にとって遠野への移封は、父祖の地を失うことになりますが、八戸氏の命脈を守るために従います。そして、遠野移封後も利直の側に仕えました。利直の没後、その子・重直の代には八戸弥六郎と名のり、それ以後、代々で本藩家老職を務めます。遠野南部家、中野家、北家は盛岡藩三家老と呼ばれ、盛岡城に常勤します。八戸氏はその筆頭でした。
 直義が遠野に入った当時は、横田城奥の院はむしろ敷きで、諸士屋敷も周辺にわずか28軒が散在するのみ、板戸代わりにむしろを下げているだけという荒廃ぶりでした。 
 遠野の城下町整備事業は、直義移封直後から元禄年間(1688〜1704)まで続き、延宝2年(1674)に直義が74歳で亡くなると、2代領主となった嫡子・義長が引き継ぎました。
 延宝9年(1681)遠野五町(六日町・一日市町・新町・穀町・裏(仲)町)の町屋敷数は240件弱でしたが、約100年後には608軒にも増えました。これは、遠野六度市における内陸、海産物の交易中継商業の発達によるもので、六度市は「入荷千駄出荷千駄(いりにせんだいでにせんだ)」といわれるほどの賑わいだったと伝えられています。(haru)

〈参考文献〉みちのく南部八百年地の巻 
      八戸市史  平成南部藩ホームページ








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