南部篇・江戸時代/第24話

三戸南部氏の本拠地を盛岡城に移す 南部家26代当主で三戸城主の南部信直は、豊臣秀吉から南部内七郡の所領を安堵されました。しかし、三戸城が拠点のままでは、広大な南部氏の所領を統治するには、北に偏りすぎているという問題が生じました。そこで領内の基盤固めのため、本拠地を不来方(現在の岩手県盛岡市)へ移動し、新しい城を建てる構想が浮上します。信直の嫡子である利直を総奉行として築城が始まりました。
 北上川と中津川が合流している突き出した丘陵に本丸・二の丸・三の丸などを配し、大きな石垣を構築の内郭として築城は進められます。2つの川を外濠として利用したり、城の基礎に地元で豊富だった花崗岩を使用するといった、軍事的・経済的に優れた築城計画でしたが、度重なる北上川の氾濫によって、作業は困難を強いられます。盛岡城は、利直の子・南部重直の代に完成し、以来盛岡は、藩政時代を通じて南部氏の居城となりました。
 上ノ橋、中ノ橋、下ノ橋の三橋によって河北と河南が結ばれ、城下の市街地化が一層促進され、現在の盛岡の骨格が完成しました。 この三橋は現在も盛岡市内に残されています。上ノ橋には慶長14年及び慶長16年に作られたとされる擬宝珠がつけられており、国指定重要美術品(工芸)となっています。
 盛岡城は廃藩置県後、陸軍省所管となり、その2年後には大半が取り壊され荒廃します。その後公園に整備され、岩手公園(盛岡城跡公園)として開園。歴史公園として市民に親しまれています。(金さん)

〈参考文献〉盛岡藩
      みちのく南部八百年
      盛岡市ホームページ






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