南部篇・安土桃山時代/第23話

関ヶ原の戦い・上杉包囲戦と南部利直 岩手県花巻市の鳥谷ヶ崎公園には、明治5年(1872)に至るまで、盛岡藩南端の拠点とされる花巻城が存在していました。ここでは、戦国末期の花巻城について追ってみましょう。
 慶長5年(1600)、徳川家康への抵抗の意志を固めた上杉景勝は、家康にくみする最上義光の山形城を攻めました。家康はただちに東北諸藩へ命を発して山形城の救援に向かわせ、自ら江戸に戻りました。これをみた石田三成は大軍を組織し、家康の留守を衝いて大坂城・伏見城の奪回に乗り出しました。そこで家康は上方にとって返し、石田三成軍と関ヶ原で激突しました。「天下分け目の戦い」といわれた関ヶ原合戦です。家康が協力を要請した東北の大名の中には、南部利直も含まれていました。利直は、最上家の援軍として山形に向いました。
 しかし、山形出陣で手薄になった隙を突かれ、反乱を起こされます。和賀の旧領主・和賀忠親が花巻城を夜討ちしたのです。利直は帰国の許可を得て、これを鎮圧しました。この和賀忠親をそそのかしたのが、利直と同じ東軍の伊達政宗だという説があります。政宗が自分の領土の拡大を謀ったのです。
 関ヶ原の戦い及び、上杉包囲戦は、軍事的駆け引きを睨みながらの戦だったといえます。この2つの戦での勝利で、徳川家康の全国平定は確実なものになりました。
 なお、和賀氏の攻撃に耐えた花巻城は、その後も南部領の重要拠点として機能していくことになります。(アラン・スミシー)

〈参考文献〉シリーズ藩物語 盛岡藩
      青森県史資料編/近世1
      みちのく南部八百年








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