南部篇・安土桃山時代/第22話

九戸政実の乱〈後編〉 三方を川に囲まれた難航不落とされる九戸城の攻略に手を焼いた、奥州再仕置軍の諸将たちは「降伏すれば、一族家臣の命は助かり、所領は安堵される。」と九戸家の菩提寺である長興寺の住職・薩天和尚を使者にたて、九戸政実城を明け渡すよう説得させました。政実はこの申し出に応じて、家臣らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で再仕置軍に降伏します。ところが、助命の約束は反故にされて、政実の弟・実親はじめ城内に居た者は全て二ノ丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ、火をかけられました。その光景は三日三晩、夜空を焦がしたと言い伝えられています。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女性の人骨などが発掘されています。そして、政実ら主だった首謀者達は集められ、天正19年(1591)栗原郡三迫(宮城県栗原市)で重臣たち7人と打ち首となりました。
 また、使者として奥州再仕置軍に利用された薩天和尚のその後の消息は歴史書には記されていませんが、ひとつの言い伝えとして、盛岡の南部家菩提寺である東禅寺で、抗議のため自害したといわれています。
 九戸村に、政実が戦勝を祈願したと伝わる九戸神社の近くに九戸政実の首塚が残っています。この首塚は、斬首となった政実の首を家臣が密かに九戸へ持ち帰り、塚を築いて鎮められたといわれている場所です。また、田子町には政実の子・亀千代を祀る小さな社があります。
 天下人秀吉に最後まで抵抗した政実は、首一つになっても故郷に帰って供養を受け、現代も地域の人々に愛され続けています。(サト)

〈参考文献〉南部町誌 上巻
      南部の歴史








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