南部篇・安土桃山時代/第21話

九戸政実の乱〈前編〉 岩手県二戸市福岡の市街地を望む高台に、九戸城跡があります。この城を居城としていたのが、北奥羽を支配していた南部一族の実力者である九戸政実です。
 政実は、南部信直と南部氏26代当主の座を巡って対立します。天正10年(1582)、三戸南部氏25代当主となってすぐに暗殺された南部晴継の跡継ぎとして、南長義や北信愛、八戸政栄などから支持された信直が26代当主を継承することとなりますが、政実の弟・実親が退けられたことに対して、政実は大いに不満を持ち、恨んでいたようです。
 信直が当主になると、天正19年(1591年)、政実は自身が南部氏当主となるべく、苫米地城攻撃を皮切りに信直方の周囲の城館を攻撃しました。もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、自力での九戸政実の討伐を諦めた信直は、嫡子・利直と重臣の北信愛の2人を上洛させ、豊臣秀吉に援軍を要請しました。秀吉の号令により編成された討伐軍は奥州再仕置軍と称し、10万の兵は一揆を平定しながら北上し、九戸城近くまで進撃します。九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ち、これに抵抗した九戸政実は5千の兵とともに九戸城に立て籠もります。総勢6万の兵が九戸城を包囲、攻防を繰り返しました。
 九戸城は、西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要塞で、難航不落の城と呼ばれていました。討伐軍の予想は裏切られ、攻撃を続けることによってかえって損害が生じるだけでした。そこで、討伐軍は次なる策へ出るのでした。(サト)

〈参考文献〉南部町誌 上巻
      南部の歴史








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