南部篇・安土桃山時代/第20話

南部氏の勢力地図の移り変わり 津軽為信が現れるまで、現在の青森県全域を支配していたのは南部氏でした。ところが、為信が独立の動きを見せた16世紀後半、南部家の客将である北畠氏の浪岡城と、南部氏26代当主・南部信直の父・石川高信の石川城(大仏ヶ鼻城)は為信によって滅ぼされました。これにより、この地の勢力図は大きく塗り替えられていくことになります。青森県全域を支配していた南部氏の勢力は半分近く減り、青森県の東側だけとなってしまいました。
 この後、為信は豊臣秀吉に鷹を献上するなどの工作を駆使し、津軽地方の支配を認められ、青森県の西側を手に入れました。信直はこれに不満を持ち秀吉に訴えましたが、結果は変わりませんでした。不満を残したまま、信直は秀吉から朱印状を受け、「南部七郡」を治めることとなりました。しかし、信直の統治は安定せず、九戸政実の乱が起きるなど、その後も苦労することになります。
 信直はその後、本拠地を三戸から九戸、そして盛岡に移しました。寛文4年(1664)に28代当主・南部重直が死去すると、領地は2人の弟に分領され、七戸重信には盛岡藩8万石、中里直房は八戸藩2万石が与えられ、それぞれを治めることになりました。
 一方、津軽地方の支配を認められた為信は、弘前藩4万7千石の初代藩主となりました。その後、明暦2年(1656)に4代・信政が幼くして藩主となった際、幕府の指示により信政の後見人となった叔父・津軽信英に、弘前藩より5千石が分知されました。これが黒石津軽家の始まりです。黒石津軽家は、文化6年(1809)に加増されて1万石となり、大名となりました。(メガネ)

〈参考文献〉三戸町史 上巻







ページのトップへもどる

動画

ページのトップへもどる

コラム

 

ページのトップへもどる