南部篇・安土桃山時代/第18話

剣吉城主・北 信愛 南部町剣吉には三戸南部氏の重臣であった北信愛(のぶちか)が城主を努めていた剣吉城がありました。北信愛は大永3年(1523)剣吉村で生まれました。父・致愛(むねちか)が永禄年間(1558〜1569)に死没後、信愛が剣吉城の跡を継ぎました。信愛は物事を恐れず智謀に優れ、武術では特に弓が優れていたようです。信愛は、のちに三戸南部家の当主となる南部信直とも深い関わりがあります。
 信愛の剣吉城主時代、三戸南部氏24代当主・南部晴政に後継者がいなかったため、婿の信直が跡継ぎに決まっていました。しかし、晴政に跡継ぎとなる男児・晴継が誕生すると信直と晴政は不和になりました。信直夫人も既に死没していたので信直は跡継ぎを辞退し、田子館に戻りました。晴継の身を案じた晴政は、信直を殺そうと狙っていました。これを不憫に思った信愛が信直を剣吉城に匿います。晴政はそのことに立腹し、剣吉城に攻め入りましたが、双方の間に根城南部氏18代当主・八戸政栄が入って和解を進めました。その後、晴継が幼くして25代当主となるも、ほどなくして死没。改めて信直が跡継ぎに推され、26代当主となります。
 16世紀後半になると、大浦為信(津軽為信)が独立の動きを見せ、浪岡城の北畠氏を滅ぼし、石川城の石川高信(信直の父)を討ちました。南部信直は前田利家を介し、為信は秀吉の惣無事令に違反した逆徒であるという訴えは退けられ、為信は罰せられませんでした。
 天正18年(1590)、信直は秀吉から朱印状を受け、正式にその臣下となりました。このとき糠部、閉伊、鹿角、久慈、岩手、志和、遠野などの支配を認められ、領主としての地位を高めることに成功しました。(メガネ)

〈参考文献〉剣吉城主 北 信愛







より大きな地図で 青森歴史街道探訪 南部編MAP を表示

ページのトップへもどる

動画

ページのトップへもどる

コラム

 

ページのトップへもどる