津軽篇・室町時代/第14話

蛎崎蔵人の乱 むつ市川内町、蛎崎城跡は陸奥湾を望む小高い丘にあります。建武元年(1334)、根城南部氏4代・師行の目代として配置された武田修理の居城でした。のちに武田氏は蛎崎氏と改め、改築された蛎崎城は錦帯城と称されました。その後、根城南部氏6代・信政は後村上天皇の甥・良尹(ながただ)を下北地方、田名部の領主として迎えました。この時、良尹は現在のむつ市城ヶ沢にあったという順法寺城を居城とし、人々は天皇の血を引く良尹の一族を北部王家と呼んだとされています。
 文安5年(1448)、北部王家5代・新田義純は重臣の蛎崎蔵人の謀略により、子供達と共に暗殺されました。それにより、蔵人は北部王家の実権を握ることになりました。蔵人による謀反の報は、北部王家とゆかりの深い根城南部氏にももたらされました。13代当主・政経は、幕府に事の詳細を報告し、後花園天皇から蛎崎蔵人追討の勅許を得ていました。その間、蔵人は北部王家の財力をつぎ込み、城を強固な構とし、松前アイヌの兵など多くの兵力を集めたといいます。
 康正2年(1456)12月、いよいよ勅許が出ます。根城南部軍は蔵人への攻撃を開始しましたが、大雪という条件に有利であったアイヌ兵の勢力により苦戦が続きました。政経軍は海上から錦帯城を奇襲、蛎崎軍を破り、錦帯城は落城、蔵人は蝦夷へ逃げました。
 蛎崎蔵人の乱を平定した根城南部氏は、幕府や朝廷からの許しを得てからの戦であったため、恩賞として北部王家の所領・田名部3千石と錦帯城等に蓄えられていた莫大な金・銀や銭、食料を与えられました。こうして南部政経の領主としての威令は一段と高まることとなったのです。(haru)

〈参考文献〉みちのく南部八百年天の巻
      下北半島町村史







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