南部篇・室町時代/第12話

安藤氏との戦い 南北朝時代の北奥羽では、南朝方についた根城南部氏が優勢で、北朝方の三戸南部氏を押さえていました。ところが、対立が止んだ14世紀末頃から三戸南部氏がこの地域の支配を確立したようです。その過程で、松前・津軽・下北・秋田を支配していた安藤氏とも対立し、しばしば、戦闘をくり返しています。
 応永25年(1418)、三戸南部氏13代当主・守行とその嫡子・義政は、十三湊に拠点を置く津軽安藤氏の居城を次々と攻撃、陥落させました。敗れた津軽安藤氏は松前へ逃れ、三戸南部氏は北東北の大部分を手中にしました。その後、永享4年(1432)に秋田湊の安藤氏が再び仙北地方に侵攻するも、大軍を派遣し撃退しました。この時、仙北地方には、守行の三男で下久慈城主・金沢右京亮家光を代官として置いたとみられています。  応仁2年(1468)、安藤政季(師季)は失った津軽などの回復を願う願文を熊野那智大社に奉納していますが、そういった安藤氏の挑戦をことごとくはねのけ、三戸南部氏は全盛期を迎えました。「南旧秘事記」によると、東北太平洋側は現在の仙台市大崎まで、日本海側は新潟県までの広大な領地を有していたとされています。仙北地方では金沢氏と安藤・小野寺氏との間で熾烈な戦いが続きました。長禄・寛正(1460〜65年前後)になると小野寺氏を主力とする出羽勢の反撃が始まり、金沢右京亮家光は敗死しました。
 その後、家信の嫡子・光信(のちの大浦光信)が三戸南部氏の命により、安藤氏の備えとして津軽地方種里へ派遣されます。そして、光信から5代後の大浦為信が津軽統一を成し遂げ、弘前藩誕生へと続きます。(haru)

〈参考文献〉みちのく南部八百年 
      秋田県の歴史  秋田県の歴史県史
      武家家伝南部氏






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