津軽篇・南北朝時代/第10話

足利将軍と南部氏 鎌倉幕府滅亡後、建武2年(1335)と延元2年(1336)の二度にわたり、根城を拠点とする南部師行の軍勢は、国府の将軍・北畠顕家の伴として、後醍醐天皇に敵対する足利尊氏の討伐に出陣しています。尊氏は光明天皇を守り立て北朝政権を開きます。公家統一を願う後醍醐天皇は吉野に朝廷を開き南朝政権をたてます。こうして、朝廷は京都と吉野に分かれ、公家も武士も二手に分かれて60年間近く争います。これが南北朝時代です。
 南部師行は北畠顕家と行動を共にし、最初の遠征で足利尊氏を京都から九州へ追い払うことに成功しました。顕家はこの功績からわずか16歳で陸奥鎮守府大将軍に任じられます。一方、九州で力を蓄えた足利勢は大軍で京都に攻め入ります。延元2年(1336)の夏、出陣命令を受けた師行は糠部の精鋭約2千騎を引き連れ、顕家と共に足利軍を迎え撃つために京都へ出陣します。一年近くも各地で戦を繰り広げた結果、和泉国堺浦の南、石津川のほとりで、部下108人と共に壮絶な最後を遂げました。(石津の戦い)
 その命が尽きるまで総大将の顕家と行動し、忠誠を誓った師行は、奥州を発つ前に遺言を残しています。「この度の上洛は厳しく、おそらく自分は討死するだろう。しかし自分が戦場の露と消えても、悲しまず、節操を曲げずに忠節を貫徹したことを喜んで欲しい。そして、自分達南部一族が奥州に多くの土地を得られたのは顕家と帝の恩恵があったからこそで、今後どんなことがあっても敵の足利軍に寝返ってはならない。」
 師行の子孫はその遺言を守り、政長、信政、信光、政光と5代に渡り、南朝方への忠誠を守り続けたのです。(芳賀)

〈参考文献〉根城ものがたり
      根城跡 陸奥の戦国大名 南部氏の本拠地
      歴史と伝説 南部昔語 
      歴史と伝説 はちのへ物語






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