南部篇・南北朝時代/第7話

南部氏が糠部に入ってきた時の様子 青森県三戸郡南部町相内、南部家の始祖・南部光行が糠部に入部した際、宿をとったという相内観音堂があります。伝承によれば、光行は八戸に到着した後、馬渕川沿いに西へ向かい、今の三戸郡南部町の相内観音堂で一夜を過ごしました。翌日になると、観音堂に村人たちが集まり、光行が領主であることがわかると、佐藤兵衛(さとべえ)、後の田子丹波の家に光行一行を案内しました。佐藤兵衛は光行に「仮にも領主の館とするのであれば、一日といえども非常の備えが必要です」と言い、急いで村人を集め、徹夜で家の周りに堀を掘らせました。こうして夜のうちにできた館を「一夜堀の館」と呼ぶようになりました。光行は佐藤兵衛を家臣に加え、この館で正月を過ごしたといわれています。
 佐藤氏の子孫は代々南部家に仕え、九戸政実の乱を機に三戸に帰還します。田子通16箇村の世話人、まとめ役となり下参郷(しもさごう)氏と名乗るようになりました。その後、三戸町内の八日町に屋敷を賜り、田子丹波と改め田子氏を名乗ります。
 三戸町川守田にある熊野神社のとなりには、佐藤兵衛屋敷跡があります。屋敷跡の脇には「えの坂」と呼ばれる坂があり、昔は佐藤兵衛橋(さとべえばし)と呼ばれていたのが省略されて「衛(え)の坂」と呼ばれるようになったといわれています。現在、屋敷跡には広大な石塁があり、かつて大きな屋敷があったことがわかります。
 南部光行は村人に歓迎されながら、「一夜掘の館」で冬を越し、春になると平良ヶ崎城の築城工事に取り掛かりました。ここから、南部氏の歴史が始まるのです。(メガネ)

〈参考文献〉三戸町史上巻  田子町史







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