南部篇・鎌倉時代/第6話

櫛引八幡宮 八戸市、南部の総鎮守とよばれる櫛引八幡宮は、南部家初代・光行が草創したと伝えられています。光行が家士を遣わして、甲斐南部郷(現在の山梨県)の八幡宮御神体を奉り、櫛引村に宮社を造営し武運長久を祈ったのがきっかけです。朱色の太鼓橋を渡ると「南部一之宮」の正門とよばれる四脚門があります。平屋の門の中で最も格式の高い形式といわれています。本殿は、三間社流造の社殿であり屋根が曲線になっているのが特徴です。細部には彫刻や彩色模様があり江戸時代前期の造立でありながら桃山時代の遺風が察せられる建築となっています。
 国宝の赤糸威鎧兜大袖付(あかいとおどしよろいかぶとおおそでつき)は、大袖と兜に菊一文字の飾金物があり「菊一文字の鎧兜」ともいわれています。国宝の白糸威褄取鎧(しろいとおどしつまどりよろい)は、正平22年(1367)、甲斐の本領である波木井にいた根城南部家7代・信光が、北朝方の武将「神大和守」を退けた功績により後村上天皇から拝領したものだと伝えられています。応永18年(1411)根城南部家10代・光経が安藤氏との秋田戦争に打ち勝った時、備州長船幸光の太刀とともに奉納したそうです。
 建武年間(1334〜1338)には、根城南部家4代・師行が流鏑馬(やぶさめ)の神事を奉納したといわれています。現在でも旧暦8月15日の例大祭で行われており、多くの観光客が訪れています。櫛引八幡宮は糠部郡を拝領されてからの南部家の軌跡が残っている場所だといえるでしょう。(金さん)

武運長久=武人としての命運が長く続くこと。
     また、出征した兵がいつまでも無事な事。

〈参考文献〉青森県教育委員会「青森県の文化財」
      郷土出版社「三戸・八戸の歴史」










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