南部篇・平安時代/第2話

奥州合戦前の東北 平安時代後期、陸奥国(むつのくに)と呼ばれていた東北には、奥六郡を拠点とする安倍氏、出羽仙北三郡を拠点とする清原氏、この二つの大豪族が存在していました。
 当時、安倍氏の勢力拡大を恐れた朝廷は口実をつくり、永承6年(1051)安倍氏討伐を命じました。これが前九年の役のはじまりです。安倍氏とは苦戦が続いたため、陸奥守鎮守府将軍・源頼義はもう一つの豪族・出羽仙北の清原氏に援軍を求めました。清原氏の参戦により安倍氏は滅び、この功績により清原武則は従五位下鎮守府将軍に補任、さらに奥六郡が与えられ奥羽の覇者となりました。
 武則は鎮守府を国府にも近い衣川に拠点を移し、清原氏本流の地位を固めますが、永保3年(1083)真衡の代に後三年の役が起こります。真衡は鎮守府将軍・源義家の協力を得て、敵対していた異母兄弟清衡・家衡を押さえ込みます。その後、真衡が病死すると、源義家は、真衡の遺領・奥六郡を南北二つに分け、清衡に南三郡を、家衡に北三郡を与える決定を下しました。これを不服とした家衡は、応徳3年(1086)清衡の館を攻撃し、清衡の一族をすべて殺しました。清衡自身は何とか生き延び、義家に助けを求めたため状況は一変し、清原一族の内乱から、源氏対清原一族の争いへと発展してしまいました。
 義家・清衡連合軍は苦戦を強いられますが、官職を辞して都から駆けつけた義家の弟・義光(新羅三郎)が参戦し勝利へと導きました。 清原氏の旧領すべてを手に入れた清衡は藤原清衡を名乗りました。奥州藤原氏の誕生です。彼らは独自の政権と文化を確立し、奥羽の覇者として君臨します。(haru)

〈参考文献〉図説平泉(浄土をめざしたみちのくの都)
      青森県史資料編/古代1 文献資料







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